【歴史】厳島の戦い~毛利元就 VS 陶晴賢~
文部科学省 学習指導要領「生きる力」
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/index.htm
隆房(陶晴賢)と主人の大内義隆
厳島の戦いは1555年に起きた、西国最大の大名・大内家の実力者「陶晴賢」と安芸を領地とする「毛利元就」との戦いです。
陶晴賢は元々大内家に仕えていた重臣で、大内家は名門家でした。
元の名前は隆房でしたが、主君である大内義隆の一字を貰っていました。主君の一字を貰うことは当時としては大変名誉なことでした。
しかし、主人の義隆は尼子攻め(月山富田城の戦いのこと)に失敗すると、政務を投げ出して、遊びに耽ってしまいました。
(一見悪いように見えますが、悪い影響だけではありませんでした。当時、山口は小京都とよばれていました。それは彼が京都の公家を保護した、義隆は文化の面では貢献していたからです。)
隆房を中心とした家臣たちは義隆を諭しましたが、義隆は聞き入れることはありませんでした。
限界点に達した隆房は1551年にクーデターを起こしました。
いわゆる、大寧寺の変と呼ばれるものです。
その結果、敵わぬと見て義隆は自刃し、その子の義尊は殺されていました。
隆房は本来子の義尊を新しい当主に据えて大内家を一新しようとしていましたが、「部下が独断で義尊を殺してしまった」と報告を受けた当時の隆房は動揺していたそうです。
クーデターの後、廃嫡されていた豊後の大友宗麟の弟・晴英を新しい当主に据え、この頃から隆房は、彼の一字をとって晴賢と名乗るようになりました。 (当主の晴英は義長に改名しました。)
陶晴賢と毛利元就の裏切り
彼は新しい当主のもと、1554年に石見の三本松城の城主吉見正頼を攻めました。
吉見正頼は晴賢の元当主の義隆とは義兄弟の関係で、当主にしてくれた恩がある一方で、晴賢に対しては恩人を殺したこともあり、嫌っていました。正頼は義隆がクーデターで倒れたのをきっかけに晴賢に反旗を翻しました。
晴賢は当時まだ従っていた安芸の毛利元就に救援を求めましたが、元就は彼の要請を拒否しました。
この頃から、元就と晴賢の対立が本格的に始まりました。
三本松城の攻撃は、元就達が怪しい動きを動きをしていることを察知し、正頼は息子の広頼を人質として送ることを条件に両者は和睦し、争いはひとまず終息しました。
元就は晴賢との戦いが避けられないと直感し、戦に備えました。
しかし、兵力は残念ながら陶軍の方が上で、このまま戦えば元就は負ける可能性がありましたが、それでも、元就は持ち前の知恵を活かして、守りを固めることにしました。
陶軍の方ですが、晴賢はまず部下の宮川房長を派遣し、攻撃を試みましたが、元就たちは周辺の地形を活かして、奇襲をかけてきたため、折敷畑の戦いで宮川房長が破られる結果となりました。
房長を失った晴賢はそれでも諦めず、兵をさらにかき集めました。
その数は2万にのぼり、その一方で毛利軍は4,000人ほどでした。
そして、決戦の地が厳島に移ることになりました。
毛利元就の策略と嵐の前の静けさ
決戦に備えて兵の少ない毛利軍は元就の知恵で補うことにしました。
まず、陶軍の戦の名人である江良房栄に目をつけたのです。
元就は最初房栄を寝返らせようとしますが、失敗しました。
そこで、房栄が晴賢に謀反を起こそうとしていると偽の情報を流し、それを信じた晴賢は元就の術中に嵌まり、房栄を殺してしまいます。
陶軍は彼を失ったことで、戦力の低下に繋がりました。
次に、元就は、厳島に陶軍をおびき寄せることにしました。
そもそも、元就が厳島を選んだ理由ですが、陸地だと陶軍相手に勝ち目がないのに対して、厳島の方が奇襲がしやすく、水軍を率いて厳島を通過すると判断したからです。
しかし、それでは、陶軍は厳島に向かわず、元就の居城である郡山城を攻めるなどのような、想定外な事態が起こり得ると考えました。
そこで、元就は家臣の桂元澄を裏切った振りをして、陶軍に潜入させました。
元澄は元就達が厳島にとどまっている間、郡山城を攻めるという約束をさせることで、陶軍の注意を厳島に向けさせました。
晴賢は元澄の裏切りが本当だと思い込み、いつでも毛利軍を捻り潰せるとたかをくくってしまったのです。
これが策士元就の思うつぼとなりました。
そして、元就は村上水軍に協力を取り付け、村上水軍はこの元就の要請に応じました。
これで戦いの準備が整ったのです。
厳島の戦い
1555年9月、当時の天気は嵐でした。
元就は嵐に乗じて奇襲をかけました。陶軍は当然、驚きました。
そして、陶軍は散り散りとなってしまい、兵の統制がつかなくなっってしまったため、晴賢はついに自害し、毛利軍は大勝利を収めました。
毛利軍が勝つことができた要因はもちろん、彼の知略もありますが、優秀な子供達と部下がいたことでした。
元就の有名な話として、子供達に説いた三本の矢が知られています。
一方で、陶晴賢は大内家に仕える名門ではありましたが、傲慢かつ高圧的で部下の意見に耳を貸しませんでした。
しかし、裏を返せば、晴賢は大内を守るために義隆に釘を刺す名目でクーデターを起こしたという側面も見られ、隠居してもらっていた子供の義尊を当主に据えるつもりが、思ってもいない方向に進んでしまい動揺する様子などがうかがえるので、主君と大内家に対する忠誠心は多くあったのかもしれません。
しかし、彼の行動は過激すぎたため、周りから信頼されず非業な最期を遂げてしまったのは自業自得なところがあるのは否めません。
この後、毛利元就はこの厳島の戦いをきっかけに、元就は勢い付き、ついには中国地方全土を統一する序章となりました。
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