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【名城紀行】~伊賀上野城~

初めまして!いつも見てくれている人はありがとう!家庭教師ひのきあすなろスタッフの仙谷(せんごく)です。

先輩スタッフの百田さんから指令を受けて、大好きなお城と歴史の勉強に役立つ内容を発信していきます!
このシリーズを通して、歴史の面白さ、現代に伝わる古代のルーツを知ってもらえると嬉しいです。

皆さんの勉強にも旅行にも役立つ記事になるはずです!温故知新の歴史の世界にいらっしゃいませ!!


今回は伊賀上野城(いがうえの)について紹介していきます。現在の三重県。旧国名だと伊賀国にあったお城です。

お城と歴史のロマンを体感しましょう!!

文部科学省 学習指導要領「生きる力」

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/index.htm
目次

伊賀上野城の基本情報

別名:白鳳城

城郭構造:梯郭式平山城

天守構造:不明5重、現在は層塔型3層3階の復興天守

築城主:筒井定次

築城年:1585年(天正13年)【安土桃山時代】

主な城主:筒井定次(20万石)、藤堂氏(32万石)

伊賀上野城は筒井定次によって築かれた城で、のちに築城の名手と謳われる藤堂高虎が大規模に改修しました。高虎は徳川家康の命により、豊臣氏を包囲する城として伊賀上野城を拡張しましたが、「大坂の役」によって豊臣氏が滅んだため工事は中止されました。

伊賀上野城の歴史

伊賀上野城の歴史を語るためのキーワードは

  1. 伊賀平定
  2. 筒井氏時代と藤堂氏時代

の2つですね。順番に見ていきましょう!!

伊賀の動乱から平定まで

伊賀上野城西の丸と後世に呼ばれることとなる丘陵には伊賀の守護大名である仁木氏館(伊賀の守護所)がありました。しかし仁木氏は室町時代半ばから衰退が始まり、戦国時代には名ばかりの守護となっていました。権威を回復しようと合戦を起こすもその都度敗走し、領国経営は機能していませんでした。後に仁木義視が織田信長の援助で守護に返り咲いたが、国人の支持を得られず再び追放され伊賀は反織田の姿勢を明確にしました。
1579年(天正7年)、伊勢の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定(天正伊賀の乱)に乗り出したが、伊賀衆の前に敗れ、1581年(天正9年)に信雄の父織田信長は4万5千の兵で伊賀を平定し、信雄の家臣である滝川雄利を伊賀守護としました。
本能寺の変後豊臣政権となると、1584年(天正12年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣脇坂安治が伊賀守護となったが、1585年(天正13年)に摂津に移封されました。

筒井定次と藤堂高虎による築城・改修

脇坂安治の移封から3ヶ月後の8月、郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次が伊賀へ移り住みました。定次は天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにしました。城は高丘の頂上を本丸とし、三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下を三の丸を配し、大手を三の丸の北谷口とし、防御のための城を築城しました。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると定次は東軍の徳川家康方につき会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西軍の摂津高槻城主新庄直頼・直定父子に攻撃された際、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡しました。定次は家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得ました。
関ヶ原の戦い後、新庄直頼父子は改易され定次は本領安堵、伊賀上野藩を立藩しました。しかし、家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、近江彦根城同様重要な地点である上野城を強固にすべく、家康は定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、1608年(慶長13年)に領地没収、磐城平城主鳥居忠政のもとに預けました。

同年8月、伊予宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が伊賀に入国しました。高虎は1611年(慶長16年)より、伊賀上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそぎました。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築しました。天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしましたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設し、攻撃のための城を築城しました。完成をひかえた1612年(慶長17年)、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊しましたが、2度に渡る大坂の陣で家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されませんでした。

一国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、1825年(文政8年)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏の世襲としました。

仙谷から見た伊賀上野城

伊賀上野城は、百名城に指定されています。松坂城、津城と並んで三重県三名城とも称されます。

現在は模擬天守が木造で再建されており、藤堂高虎の黒漆塗の兜などが展示されています。また、高さ29.7mと日本有数の高さを誇る内堀の高石垣が特徴です。さらに、松尾芭蕉を祀る俳聖殿および芭蕉翁記念館や伊賀流忍者博物館があり、伊賀上野の観光地として利用され、各種イベントなどが行われています。

さて、伊賀上野城についての理解が深まりましたでしょうか??
少しでも「面白いな」とか「分かりやすい」と思ってくれたら嬉しいです!

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